カラーウーンの病院のその後

2020年 05月11日

執筆者:久保 亮輔

カラーウーンの寄進施設内にある病院は、中世を通じて、マムルーク朝における最も重要な病院であっただけでなく、中東・イスラーム地域における医療の中心であった。内科、眼科、外科、整形外科の4つの診療科を置く総合病院として、その名は各地に知れ渡り、17世紀イスタンブル出身の旅行家エヴリヤ・チェレビー(1682年没)も「カラーウーンの病院はアラブ、ペルシア、アナトリアの人びとの間でも有名である」「これまで旅行したどの国にもこれほど素晴らしい病院はない」と記しているほどである1。この施設で管財人を務めたヌワイリー(1332年没)2や、エジプトの歴史家マクリーズィー(1442年没)も、ムスリムであればどのような患者でも受け入れ、入院期間にも制限を設けず、往診もおこなっていたことを伝えており3、ムスリム市民の生活に寄り添った診療を行なっていた様子がうかがえる。

1 Dols, 1992: 123–24.
2ヌワイリーは、ナースィル・ムハンマドの第2治世期(在位1299-1309)に、カラーウーンの寄進施設の管財人を務めた官僚である。後に、33巻に及ぶ百科全書である『学芸の究極の目的』を著したことで知られている(Muqaffā, 1: 521–22)
3Nihāyat, 31: 108; Khiṭaṭ, 4: 696.

驚くことに、同病院は、現在も同地において診療を続けている。ただし、現在の名称は、「カラーウーン眼科クリニック」となっており、外来・入院の機能を併せ持った眼科クリニックとして運営を続けている。中世のカラーウーンの病院が継続しているのだとすれば、同病院は13世紀に創建されて以来、21世紀の現在に至るまでその命脈を保ってきたことになる。かくも長きにわたって診療を続けてきた病院は、イスラーム史においては他に例を見ない。

だが、ここで一つ疑問に思わないだろうか。総合病院として開院したはずの病院が、なぜ眼科クリニックとなっているのか。この謎を明らかにするために、歴史の一端を紐解いてみようと思う。

カラーウーン眼科クリニックの看板
©Qalawun VR Project

19世紀にさしかかろうとしていた1798年、将軍ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がエジプトに上陸、ピラミッドの戦いでの勝利の後、カイロに入城した。ナポレオンのエジプト遠征というと、軍事占領としての側面が強調されがちだが、じつは遠征の際、多数の学識者が同行し、現地調査を行なっている。そこで得られた知見は、後に『エジプト誌』としてまとめられたが、その中に、カラーウーンの病院に関する報告が含まれているのである。その報告によれば、当時の病院では、病状者はベッドや寝具すら用意されず、精神病の男性患者に至っては、首を鎖で繋がれていたというのである。なかには、3年ものあいだ放置されたままの患者もいたと言う4

4 Description de l’Egypte, 18: 322–23.

フランス軍の撤退の後、エジプト近代化の父であるオスマン朝エジプト州総督ムハンマド・アリー(在位1805–49)は医療制度の改革を実施したが、カラーウーンの病院の医療環境は依然として劣悪な状況に置かれていた。19世紀の半ばには、病状者はカラーウーンの病院を避けるようになり、精神病患者のみが残されていたと言われる5。ムハンマド・アリーの孫で副王(ヘディーヴ)のイスマーイール(在位1867–79)の時代になると、医療制度改革はようやくカラーウーンの病院にも波及し、そこに収容されていた精神病患者はアッバースィーヤ地区に新たに設立された精神病院に移されることとなった。患者がいなくなったカラーウーンの病院の各部屋は、1880年ごろまで商人向けに賃貸に出されたが、その後、エジプト初の近代病院とされるカスル・アルアイニー病院に勤務していた医師の一人であるフサイン・アウフ(1883年没)がカラーウーンの病院に招かれ、そこでの治療を引き継ぐこととなった6。彼は、近代医学において眼科を専攻し、オーストリアへの留学も経験した人物であった7。眼科医としての卓越した知見をもとに、フサインは、カラーウーンの病院において、眼科に特化した診療を行うようになった。同様に、フランスに渡った経験を持つ医師で息子のムハンマドは、父フサインの業務を補佐し、父の跡を継いで病院の再建に勤めた8

5 ‘Īsā, 1981: 110.
6 Bitānūnī & Aḥmad Bitānūnī, 2008: 187; ‘Īsā, 1981: 111.
7 Bitānūnī & Aḥmad Bitānūnī, 2008: 186-87; ‘Īsā, 1981: 169.
8 Bitānūnī & Aḥmad Bitānūnī, 2008: 187; ‘Īsā, 1981: 169–170.

その後、ドイツ人の建築家で歴史家のマックス・ヘルツ(1919年没)が主任を務めたアラブ美術の歴史建造物修復委員会(Comité de Conservation des Monuments de l’Art Arabe)での寄進施設の保存の将来的な構想についての議論などを踏まえて、新たな病棟を建設することが決定し、1912年に9,000エジプト・ポンドの工事費をかけて着工した9

9 ‘Īsā, 1981: 167; Herz, 1919: 45–46.

こうして、1915年には新たな病棟で治療が開始され、カラーウーンの病院は眼科クリニックとして生まれ変わることとなった。13世紀から現在に至る長い歴史の中で、カラーウーンの病院は必ずしも一貫して創建当時と同質の医療サービスを提供してきたわけではない。それでも、カラーウーンの病院がムスリム市民の生活を支えることをやめることはなかった。近代に入り、その再建に優秀な人材と大きな資金が投じられた背景には、医療施設の監督が国家の担うべき福祉業務の一環と把握されたことに加えて、カラーウーンの病院が中東・イスラーム地域の医療センターとして確固たる地歩を得ていた事実があったためであろう。現在の眼科クリニックは、外来の診療時間には多くの患者が診療を求めてやってくる。彼ら・彼女らは、今では遺構となっているカラーウーンの病院を横目に見ながら、近代的な設備の整った病棟へ入ってゆくのである。

1915年に新設された病棟
©Qalawun VR Project

参考文献
一次文献
Description de l’Egypte: Description de l’Egypte ou recueil des observations et des recherches qui ont été faites en Egypte pendant l’expédition de l’armée française, dédiée au roi. 1821–30. Publiée par C.L.F. Panckoucke. 24 vols. Paris: Imprimerie de C. L. F. Panckoucke (https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k28016p/f329.item.r=hopital [最終アクセス2020年5月5日])

Khiṭaṭ: al-Maqrīzī, Taqī al-Dīn Aḥmad ibn ʿAlī ibn ʿAbd al-Qādir. 2002–04. al-Mawāʿiẓ wal-Iʿtibār fī Dhikr al-Khiṭaṭ wal-Āthār. 4 vols. London: al-Furqān Islamic Heritage Foundation.

Muqaffā: al-Maqrīzī, Taqī al-Dīn Aḥmad ibn ʿAlī ibn ʿAbd al-Qādir. 1991. Kitāb al-Muqaffā al-Kabīr. 8 vols. Beirut: Dār al-Gharb al-Islāmī.

Nihāyat: al-Nuwayrī, Aḥmad ibn ʿAbd al-Wahhāb. 1923–55 (vol. 1–18); 1975–92 (vol. 19–31). Nihāyat al-Arab fī Funūn al-Adab. 31 vols. Cairo: Maṭba‘at Dār al-Kutub al-Miṣrīya.

二次文献
Bitānūnī, Ḥasan and Aḥmad Bitānūnī. 2008. Aṭibbā’ Miṣr ‘Abr al-‘Uṣūr al-Islāmīya. Cairo: Dār al-Ma‘ārif.

Dols, Michael. 1992. Majnūn: The Madman in Medieval Islamic Society. Edited by Immisch, Diana., Oxford: Clarendon Press.

‘Īsā, Aḥmad. 1981. Tārīkh al-Bīmāristānāt fīl-Islām. Second edition, Beirut: Dār al-Rā‘id al-‘Arabī. Herz, Max. 1919. Die Baugruppe des Sultāns Qalāūn in Kairo. Hamburg: L. Friederichsen & Co..

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