(1) カラーウーンによる創建

カラーウーンの寄進施設は、廟、マドラサ(学院)、病院の3つの施設によって構成される複合体(コンプレックス)である。複合体の入口上部のインスクリプションによれば、施設全体の建設工期はわずか13ヶ月間(1284年6–7月から1285年7–8月)であった。これは、当時においては異例のスピードであった。このうち、病院は、建設を開始した年の年末には完成した。その後、1284年12月から翌年の1月にかけて廟の建設が着工され、4ヶ月の内に完成した。マドラサは、1285年4–5月に着工し、同年7–8月の間に完成した1

1 Behrens-Abouseif, 2007: 134.

複合体の入口上部のインスクリプション

短期間のうちに工事が完了した理由に、強引な方法でそれが進められたことがあげられる。まず、病院の建設予定地にあったクトゥビーヤ邸2 の住人を立ち退かせることから工事は開始した3。工事にあたっては、カイロとフスタートの職人たちを徴用するだけでなく、通行人までをも建設現場での労働に駆りたてたとも言う4。イル・ハン朝との戦いによって連行された数百人のモンゴル系の捕虜たちを動員したとも言われる5。また、他の建築物を破壊してその資材を病院の建設に用いたりした6。このような方法で工事を進めたことから、法学者たちがそこでの礼拝は認められないとするファトワー(法的見解)を発したほどであった7
入口付近に据えられた柱。それぞれ高さが異なる。これらの柱は転用材と見られる。このような転用材は施設内の随所に見られる。

2 病院の建設予定地にあったファーティマ朝の西の王宮は、アイユーブ朝(1169–1250)後期に、アイユーブ朝スルターン=アーディル(在位1200–1218)の息子であるクトゥブ・アッディーン・アフマドの邸宅となったことから、クトゥビーヤ邸として知られていた。Khiṭaṭ, 4: 692.
3 Ta’rīkh Ibn al-Furāt, 7: 278.
4 Khiṭaṭ, 4: 698.
5 Northrup, 1998: 122.
6 Khiṭaṭ, 4: 698.
7 Khiṭaṭ, 4: 698.

寄進文書(ワクフィーヤ)によると、カラーウーンは主として都市の不動産を寄進し、そこからの収益を寄進施設の建設と維持に充てた。同時代の人々の見解では、寄進財からの収入の大部分が病院に割り当てられており、マムルーク朝期カイロの歴史家マクリーズィー(1444年没)はその収入を年間100万ディルハム(5万ディーナール)と見積もっている8。寄進された不動産は、カイサーリーヤ(中庭式の商業施設)やハンマーム(公衆浴場)などで、これらは寄進施設の近くに位置していた9

8 Khiṭaṭ, 4: 696. 寄進文書には、寄進財からの収入全体のうちどの程度が各施設に割り当てられていたかについては明記されていない。
9 病院の管財人を務めたマムルーク朝時代の百科全書家のヌワイリー(1332年没)は、この他にも多くの寄進財が病院の運営を支えていたと記しているが、その中には、建設が完了したのちに寄進された物件も含まれていると考えられる(Nihāya, 31: 106)。

(2) 寄進財の拡充と修復

カラーウーンの死後も、彼の後継者のスルターンたちによって寄進財が追加され、施設の財源は拡充していった。カラーウーンの息子で後継者のスルターン=ハリール(在位1290–94)は、シリアとパレスチナにおける対十字軍戦役での戦利品を亡き父と分け合うとして、スールとアッカーの土地を父親の廟のために寄進した。さらに、ハリールは、カイロの不動産を父親のマドラサのために寄進している10。カラーウーンの孫であるスルターン=アブー・バクル(在位1340–41)、同じくカラーウーンの孫であるスルターン=サーリフ(在位1351–54)も廟への寄進を行った11

10 Sulūk, 1: 769; Khiṭaṭ, 4: 523.
11 アブー・バクルの寄進についてはSulūk, 2: 623、サーリフの寄進についてはKhiṭaṭ, 4: 518を参照のこと。

創建から40年を経た1325年、息子のスルターン=ナースィル・ムハンマド(在位1294–95, 1299–1309, 1309–1340)によって、初めての本格的な修築工事が行われた。この工事を担当したのは、アミール(軍隊長)=アークーシュ・アルアシュラフィーであった。彼は病院のイーワーンの改修、外壁の装飾、サビール(給水施設)の設置を行うなど大規模な工事を実施した。また、施設の外に立ち並ぶ店舗を日差しから守るための日よけが設けられた。これらの工事は5ヶ月かかり、その費用はすべてアークーシュが支出したという。百科全書家ヌワイリー(1332年没)は次のように伝えている。

アミール=アークーシュは、病院に一人も病状者を残さないよう指示し、もともとそこ(病院)にいた者たちは追い出され、その(病院の)イーワーンから病状者と多くの部屋が取り除かれ、精神疾患の患者と一部の病状者を除き病院には何も残っていなかった。そして[実際に]施設で修築が始まり、修築作業が着工すると、漆喰と上塗り剤が塗り替えられ、廟とマドラサとミナレットの外壁にはノミ(azāmīl、彫刻具)で彫刻が施された。修築作業はジュマーダーI月(1326年4–5月)まで続き、その年の初めからジュマーダーI月11日火曜日まで病院の4つのイーワーンには何もない状態だった。この日、アークーシュは病状者たちを(病院に)戻すよう指示した。この修築作業に要した費用の合計は60,000ディーナール弱であった。(Nihāya, 33: 202–203)

また、歴史家マクリーズィー(1444年没)は次のように伝えている。

カラク総督のアミール=アークーシュが1326年に病院の管財人に任命されたとき、そこに病人のための部屋を増築し、また建物の壁面に石材で装飾を施したので、(建物は)まるで新しく建てられたかのようであった。マドラサと墓廟の外装を金泥で塗り替え、100ズィラー(1ズィラーは約66.5cm)もの広さの日よけを創設し、ナースィリーヤ学院(スルターン=ナースィル・ムハンマドのマドラサ)に隣接する廟の壁からサーガ(金細工店が集中するスーク)の真向かいのマンスーリー学院(カラーウーンのマドラサ)まで広げられた。それは、(そこで商品を広げて販売していた)小さな容れ物を扱ういくつかの露店を太陽の暑さから保護するためであった。そこ(露店の並び)にロープを設置し、暑いときには(それをほどいて日除けを広げて)覆い、太陽(の日差し)が届かなくなれば畳めるようにした。それを高い位置に設置した。また、家畜の飲水のために設置されていた水槽を病院の門の近くから(別の場所に)移動し、その(水槽の)前にたまった排泄物が悪臭を漂わせ人びとに害が及んでいたので、それ(病院の前にあった水槽)を撤去した。そしてその(家畜用の)水槽の代わりに、人びとがそこから水を飲めるように病院の門にサビール(給水施設)を設置した。(Khiṭaṭ, 4: 697)
複合体への入口手前に位置するサビール(給水施設)

(3) 近世以降の修築

1776年には、当時の病院の監督官であったアブド・アッラフマーン・カトフダーが大規模な修築工事を行った。このときの工事では、廟と前室のドームの取り壊しや、マドラサの南側にあった居室部分の取り壊しとアーケードの設置が行われた。

ドームが取り外されたカラーウーン廟(19世紀末から20世紀初頭)
左図出典:ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館所蔵ジャンパスカル・セバ撮影写真
画像:V&A Museum (http://collections.vam.ac.uk/item/O1277147/the-mosque-of-mamluk-sultan-photograph-sebah-jean-pascal/#)
取り壊された居室部分に設置されたアーケード(現在)

その後、20世紀初頭に、歴史建造物や遺跡の管理・保存を監督するアラブ美術の歴史建造物修復委員会(Comité de Conservation des Monuments de l’Art Arabe)により大規模な修築作業が実施されることとなり、この際の一連の修築を経て、カラーウーンの寄進施設は現在の姿に整備されていった。このときに、1世紀以上の間、内部がむき出しの状態になっていた廟にコンクリート製のドームが設置された12。この修築工事を指揮したマックス・ヘルツ(1919年没)は、原型が不明であったドームを復元するにあたり、スルターン=ハリール廟のドームを模した。また、廟の内装もこのときに修復された。

12 Behrens-Abouseif, 2007: 138.

修復後のカラーウーンの寄進施設(1910年頃)
出典:不明(撮影者不明)
画像:Wikimedia Commons (https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0b/Qalaun_after_restoration.jpg)

参考文献
一次文献
Khiṭaṭ: al-Maqrīzī, Taqī al-Dīn Aḥmad ibn ʿAlī ibn ʿAbd al-Qādir. 2002–04. al-Mawāʿiẓ wal-Iʿtibār fī Dhikr al-Khiṭaṭ wal-Āthār. London: al-Furqān Islamic Heritage Foundation.
Nihāya: Nuwayrī, Aḥmad ibn ʻAbd al-Wahhāb. 1923–55 (vol. 1–18); 1975–92 (vol. 19–31). Nihāyat al-Arab fī funūn al-adab. 31 vols. Cairo: Maṭbaʻa Dār al-Kutub al-Miṣrīya.
Sulūk: al-Maqrīzī, Taqī al-Dīn Aḥmad b. ‘Alī b. Abd al-Qādir. 1939–73. Kitāb al-Sulūk li-Maʻrifat Duwal al-Mulūk. 4 vols. Cairo: Maṭba’a Dār al-Kutub al-Miṣrīya.
Ta’rikh Ibn al-Furat : Ibn al-Furāt, Muḥammad ibn ʻAbd al-Raḥīm. 1936. Ta’rikh Ibn al-Furat. Bayrūt: al-Maṭba’a al-Amirkānīya.

二次文献
Behrens-Abouseif, Doris. 2007. Cairo of the Mamluks: a history of the architecture and its culture. Cairo, Egypt: American University in Cairo Press.
Northrup, Linda Stevens. 1998. From slave to sultan: the career of Al-Manṣūr Qalāwūn and the consolidation of Mamluk rule in Egypt and Syria (678-689 A.H. /1279-1290 A.D.). Stuttgart: F. Steiner.

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